『クジャクのダンス、誰が見た?』のタイトルの意味や、心麦の父・春夫がこの言葉を告げた意味や春夫の過去との関係をまとめました。
『クジャクのダンス、誰が見た?』はインド哲学に由来する言葉ですが、ドラマの中では一体、どういう意味として扱われているのか気になりますよね。
『クジャクのダンス、誰が見た?』のタイトルの意味、そこに隠された物語全体に関わる重要なテーマ、心麦の父・春夫がこの言葉を告げた意味や春夫の過去との関係をまとめました。
『クジャクのダンス、誰が見た?』タイトルの意味は?
「クジャクのダンス、誰が見た?」は、インド哲学に由来する表現です。
この言葉は、ジャングルの中でクジャクが踊りをささげていたとしても、その光景を誰も見ていないなら、それは存在していないのと同じなのか?という問いを投げかけています。
この言葉には、人間の行動や質問についての深い考察が含まれていると解釈できますね。
「たとえ誰も見ていなくても、真実からは逃れられない」という意味を秘めたこの言葉には、ドラマ『クジャクのダンス、誰が見た』の重要なテーマ「たとえ誰にも見られていなくても、自分の罪や過ちから逃れることはできない」につながるとも言えます。
『クジャクのダンス、誰が見た?』のエピソード中では、心麦の「ジャングルの中でクジャクが踊っているのを誰も見ていなければ、それは存在していないことと同じなのか、という問いなんです」というセリフで『クジャクのダンス、誰が見た』のタイトル回収が表現されています。
『クジャクのダンス、誰が見た?』と春夫が心麦に告げた理由は?
『クジャクのダンス、誰が見た』のエピソードでは、主人公・心麦が小学生のころに同級生のスカーフを破った罪を着せられる、というシーンで『クジャクのダンス、誰が見た』のセリフが登場します。
そこでは父・春夫が心麦に言い渡した言葉として登場します。
『クジャクのダンス、誰が見た?』という言葉は、誰かに見られていなくても真実は変わらない、たとえ目撃されなくても自らの行動や罪には最後は向き合わなければならない、という教えを含んでいます。
心麦が「母親がいないから」という理由で犯人に仕立て上げられたことに、犯人は自分じゃないと言う心麦の心に寄り添うセリフとして登場しました。
父・春夫は、心麦は同級生のスカーフを破っていないということを信じている、真の犯人はいずれ自分の罪と向き合わなければならない、ということを幼い心麦に優しく語り掛けます。
大学生になった心麦の心に今も残る「誰も見ていなくても自分の行動に責任を持ち、それと向き合う勇気が重要だ」という指針を与えたのではないでしょうか。
『クジャクのダンス、誰が見た?』と春夫の過去との関係は?
父・春夫の過去と「クジャクのダンス、誰が見た」という言葉は、春夫の過去との関係性をにおわせるヒントとして描かれている可能性があります。
春夫自身も過去に起こしてしまった何か、自分の過ちや罪と向き合わなければならない何かを背負い、自らの責任を果たそうとしていたのではないでしょうか?
もしかしたら、春夫は「クジャクのダンス」という言葉を心麦に送ることで、過去の自分の弱さや失敗を自らへの戒めとしていたのかもしれません。
過去に春夫が捜査を担当した「東賀山事件」において、償わなければならない過ちが春夫自身にあるとも考えられますね。
そうでなければ、わざわざ心麦に手紙を託し、松風に遠藤友哉の弁護を頼むよう動いてくれと頼む理由が成り立ちません。
遠藤友哉を助けてほしい、という協力を心麦にお願いしているところを見るに、「東賀山事件」の犯人とされる遠藤力郎は無実である可能性もありそうです。
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まとめ
『クジャクのダンス、誰が見た?』は、インド哲学の一節にある表現で、「ジャングルの中でクジャクが踊っているのを誰も見ていなければ、それは存在していないことと同じなのか?」という問いから派生し、「真実からはたとえ本人でも逃れられない」という教訓を含んでいます。
ドラマ『クジャクのダンス、誰が見た』では「たとえ誰にも見られていなくても、自分の過ちから逃れることはできない」という物語全体に関わる重要なテーマとして扱われています。
『クジャクのダンス、誰が見た?』の中では、主人公の心麦が同級生のスカーフを破ったと濡れ衣を着せられるエピソードを通じて、この言葉が父・春夫から語られました。
春夫は、真実は変わらないことや真実と向き合うことの重要性を幼い心麦に伝え、自身の過去とも関連するこの教えを託したのではないかと推測されます。